ターナー色彩株式会社

 
美術手帖2010年3月
古池潤也 古池潤也
野菜。文字。無名性。

いしいよしゆき=取材・文
吉次史成=撮影(作品図版を除く)
Text by Yoshiyuki Ishii Photo by Fuminari Yoshitsugu
鬱
鬱 2008 パネル、綿布にアクリル絵具 131×131cm 撮影=内田芳孝 高橋コレクション蔵

死 2007 パネル、麻布にアクリル絵具
91×91cm 撮影=内田芳孝


詩 2009 パネル、綿布にアクリル絵具 
131×131cm 撮影=内田芳孝


=無 2009 パネル、綿布にアクリル絵具
91×182cm 撮影=内田芳孝


「屁」 という文字を描くため、様々な種類の芋がモチーフになっている

部屋に転がる作品モチーフ。毎回絵にはまるカタチの野菜を探して購入する

壁には過去の作品が。野菜以前は文字で構成するスタイルだった

実物を写して描く古池の作品。モチーフの紫芋が広辞苑の上に

自宅兼アトリエで新作の制作に淡々と取り組む古池
克明に描かれた野菜がフラットな地の背景に並んでいる。平面的な構成の絵画だが、実物大で描かれた野菜はどれも、立体感を持ちリアルで、いかにも野菜然と存在している。そしてその野菜の一つひとつが、漢字の一画をなし、文字を形成する。

植物図鑑のような無名性を漂わせる古池潤也の絵。古池は、自らの作品を「民画の持つ無名性といったものへの共感の産物」と解説する。写真ではなく、実物を目の前に置き、ただただ克明に写すという行為(プロセス)からは、「自分らしさ」というものを探求する欲が排除されているように思える。それは、写実(見たままに描くこと)の先に自己表現があり、作家とは、他人といかに違うかを探り、固有のスタイルを確立していく人という近代主義的な考え方とは真逆な発想である。

古池は、以前、文字をコラージュのように並べる図形的な絵を描いていた。スタイル的には、いまとは異なるが、発想としてはやはり無名性を軸にした作品である。

「無名性というところでは共通していますが、以前といまでは作業がまったく違います。図形的な絵を描く反動というか、モチーフを見た通りに克明に描きたいという欲求が湧いてきまして、いまの野菜の作品になりました」。

古池にとって、スタイルは自己規定とはイコールではない。ありもののタイポグラフィ(文字)を構成していく過去のスタイル、そして実物大の野菜を克明に描き文字を構成するいまのスタイルの絵にしても、そのベースはつねに「無名性」にある(「=無」というタイトルの作品を個展で発表したこともある)。だから、スタイルが「変わることにもこだわらないし、変わらないことにもこだわらない」のである。

さらに古池の絵のおもしろいところは、絵の条件がモチーフによって規定されているというところだ。まずは絵の構成を決める文字(漢字)が選ばれる。「鬱」「正」「今」など一字が多い。そしてその一画一画に当てはめるための野菜が選ばれるわけだが、実物大で描かれるため、画面のサイズは事後的に決定される。また見た通りに描くことが前提なので、文字をつくるのに、サイズがちょうどいい野菜を逆に探さなければならず、デパートの食品売り場に赴いたり、出回っていなければ、わざわざネットで取り寄せたり、とても不自由で面倒なことをしている。だがその不自由さと面倒こそが古池の絵に説得力をもたらしているのは確かだ。そこには目に見えない時間(実在)が凝縮されているのだ。

たとえば画数の多い作品は、当然描く野菜も多くなり時間がかかる。「鬱」という作品は、制作に8か月もかかったという。季節に合わせて出回る野菜の種類も変わるため、一つの絵に春夏秋冬、時間の移ろいが凝縮されていたりする。こうした話を聞くと、野菜を描いているというよりは、野菜に描かされているというのが正しいかもしれない。おもしろい。写実という方法だけでなく、描くに至る過程においても「主体性」や「自己表現」というものが起点とならず、自分ではじめに決めたスタイルが制約となって、彼を絵に向かわせるのだ。

チェルフィッチュの岡田利規が、twitterで、九谷焼の陶芸家、上出惠悟の発言を引用し次のようにつぶやいていた。

「上出惠悟氏の言葉に感銘。曰く『(前略)理想を求めて工芸は美術を志すが、美術性は得られたとしても美術には成れない』。

『工芸には背負うべき大きな制約があり、それに対して美術には制約が何一つ無いからだ。しかし制約があるからこそ工芸は工芸として存在し、自らの強度を高める。私は九谷焼という工芸を素材とし、その制約を引き受けるということを作品としている』。

『背負うべき制約』のないジャンル(たとえば、現代演劇)は、自由だ。ただし、それは、制約がないから自由なのではない。背負うべき大きな制約なるものを自分で定めることができる自由がある、ということなのだと考えないと」。

まさに古池潤也は、このつぶやきにあるように、「背負うべき制約のないジャンル」で、「背負うべき大きな制約なるもの」を自ら定め、引き受けているといえる。目の前に置かれた野菜と向き合いながら、無名性という自由の中に自己を委ねていく覚悟。自己表現とは別の場所から生まれる絵というものの存在性。古池の絵が強度を持つ所以はまさしくその一点にあるのではないかと思う。

◎いしい・よしゆき[美術ライター]
 
古池潤也 Junya Koike
1971年愛知県生まれ。96年東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。主な個展に、05年フタバ画廊(東京)、06年exhibit Live & Moris(東京)、07、08年ギャラリー山口(東京)、09年「新世代への視点2009」(ギャラリー山口)。主なグループ展に、04年「トーキョーワンダーウォール公募2004」展(東京都現代美術館)、09年「第12回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)」展(川崎市岡本太郎美術館)。
私の一色 イエローオーカー [104-A]
「チューブから出した原色のそのままで事足りるならそれでいいと思っています。混ぜるより画面の上で重ねながら描いていく感じです。イエローオーカーはよく使います。そのままというよりは他の色と重なりあって、ポイントで使うことが多いです。黄土色(イエローオーカー)というと濁ったイメージを持つかもしれませんが、じつは明るい色なんですよ。黄色に近くていろいろと使える色ですね」。