ターナー色彩株式会社

 
美術手帖2009/5
苅谷昌江
フレームしかない箱、流れ込む物語

石井芳征(KANZAN)=取材・文
石川奈都子=撮影(作品図版を除く)
Text by Yoshiyuki Ishii Photo by Natsuko Ishikawa

Space Oddity red chairs 2009 木版に油彩、アクリル絵具 194×163cm

Space Oddity 2007 木版に油彩、アクリル絵具 130×163cm(2枚1組)

The_skull_of_the_lion 2008 木版に油彩 42×4935cmø
shadow rabitte 2008 木版に油彩、アクリル絵具 
30×40cm

京都太秦にある苅谷の協働アトリエ。
壁には制作中の新作が並ぶ

洗濯物干しに吊された筆がかわいらしい

子どもの頃の原風景か、森や動物の作品が多く見られる
油彩や会うリル絵具を和筆を使って描く
絵具を拭うのはタオルでなく作業服。
奇跡的なかっこよさに

苅谷昌江 Masae Kariya
1980年高知県生まれ。2002年大阪芸術大学美術学科卒業。04年京都市立芸術大学大学院美術研究科絵画専攻油画修了。個展に08年「Meeting」(Studio J、大阪)。主なグループ展に08年「Jeans factory art aword 2008」(カルポート、高知)、「Art in Camp」(ギャラリーヤマグチ、大阪)、09年「now here,nowhere」(京都芸術センター)、「VOCA 2009」(上野の森美術館、東京)など。
人気のない映画館。四方にカーテンのような大きな布の壁が垂れ下がっていて、客席はスクリーンから隔てられている。もしかしたらスクリーン自体存在しないのかもしれない。布の向こうにはうっすらとヤシの木らしき影が映っている。映画(物語)を鑑賞するためにつくられた空間なのに、それを見ることができない。映画館というフレームだけを残し、その中身がすっぽりと抜き取られた宙吊りの空間。そこに別の世界が映り込み、別の物語が流れ込んでいる。苅谷昌江は、そんなフレームだけを残した箱のような絵を描いている。

「何かある一つのことをするだけの場所に興味があるんです。映画館は物語を見せるだけの場所ですよね。会議室も同じで、議題が毎回変わって、それによって集まる人も入れ替わる。いろいろな物語が入れ替わる箱というか構造みたいなものに関心があって」。
 
薄ら透けて見える向こう側に私たちは、広がる世界と目に見えない存在を想像する。その想像が漏れだしてしまったように映画館の床には、様々な種類の鳥が群舞する空が文字通り底抜けに広がっている。想像と現実の世界が混じり合う夢ゆめうつつ現の景色。苅谷はこの想像と現実、二つの世界を隔てる壁をとても流動的なものとして捉えているように思える。そのような境界線に対するある種の意識の希薄さは、彼女が育った環境によるところが大きい。

「子どもの頃、高知県の南国市というところで育ったんですけど、ヤシの木が街中に植えられているような場所なんです。その地域は昔から土着的な民間信仰が根付いた土地で、風邪になったときには祈祷師さんに診てもらう習わしが残っていたり、目に見えないけれど何かが存在しているという考えが当たり前な土地だったんです。子どものときはブランコに乗りながら『風の神様こんにちは』みたいな(笑)。喘息だったので、外に出ることがほとんどなくて、遊び場は家の中か庭の周りの雑木林でした。ホントに『トトロ』の世界みたいでしたね」。
 
南国市と隣接する物部村では、陰陽道と神道・仏教・修験道などが融合した独自の民間信仰が、現代も人々の生活の中に浸透しているという。「山のものは山へ。川のものは川へ」という古来から神を自然の中に見る信仰がいまも生きた土地だ。そんな場所で、特別宗教的体験というのではなく、きわめて日常的な出来事として、自然の中に存在する目に見えない存在と触れ合ってきた彼女にとっては、現実と想像の世界の間に壁や境界線というもの自体、そもそも存在していなかったのかもしれない。
 
さらにおもしろいのが、そんな自然溢れる環境にいながら、家では早くからコンピューターに接していた点だ。外に出られないため、勉強はもっぱら父親の持っていたパソコンの教材ソフトで行っていたという。もちろんいまの子どもたちのような、インターフェイスもデザインされゲーム感覚で簡単に使いこなせるデジタル教材ではなく、まだMS-DOSの時代、わざわざコマンド入力してダウンロードする8ビットのゆるいデジタル教材だった。
 
この自然と人工のアンバランスさというか、ギャップを自然に生きているところがとても興味深い。しかし見方を変えれば、自然の中で目に見えない存在を感じながら遊ぶのも、コンピューターの画面上で目に見える記号の先に目に見えない答えを探すのも同じことなのかもしれない。そのような境界線に対する意識の希薄さ、世界を流動的に捉える感覚がいまの彼女の作品へと繋がっているのは間違いないだろう。

「全部をわかってほしいというのは無理なことで。人によって読み解き方はいろいろあると思うんです。小さい頃に見たことがあるとか、夢の中で見た風景に近いとか、受け取ってくれる人にとって何か引っかかる部分がある絵であってほしい。私が意図して用意した入口でなくても、その人なりの入口をどこかに見つけてもらえたらいいかなと思います。まっすぐ来てくれても、横から来てくれてもオッケーです」。
 
苅谷は自分の絵を心象風景というが、内面世界をただ描いた絵ではないのは明らかである。彼女は見るものを絵に招き入れ、コミュニケートしようとしている。そうでなければ、この種の絵は作品としては成り立たないだろう。フレームだけしかない箱の ような絵。透き通り流れ込んでくる向こう側の世界、目に見えるこの現実がゆがみ、別の世界へと変容する。現実と想像の間にあるシャッターはつねに半開きになっていて、私たちを待っている。

◎いしい・よしゆき[美術ライター]
私の一色 キナクリドンニッケルアゾゴールド [107-C]
「アクリル絵具は下絵を描くときにとくに使います。水を含ませて薄く塗ることが多いんですけど、キナクリドンニッケルアゾゴールドは、伸ばせば伸ばすほどいろんな表情が出てくるところがすごく魅力的で使っています。ただ茶色が薄まったというのではなく、いろんな茶色が出てくるんですよね。絵具の力に頼ってるって言ってもいいくらいの色で、頻繁に使っています」。