ターナー色彩株式会社

 



石井芳征=取材・文 池田晶紀=写真(*作品図版を除く)

左●牛舌 2004 パネルにアクリル絵具、パステル 90×45cm
左中●流の靴2004 パネルにアクリル絵具、パステル 90×180cm
右中●巨人霊 2004 パネルにアクリル絵具、パステル 90×90cm
右●流の靴2004 パネルにアクリル絵具、パステル 90×90cm

上●雲より高く2005 パネルにアクリル絵具
51.5×72.8cm
中●火星土星流れ星 2005 パネルにアクリル絵具、パステル  103×72.8cm
下●チーター 2005 パネルにアクリル絵具、パステル 90×90cm


左●保管された作品群。「肉」、「牛舌」など、見出しは直接的なものが多い。確かに「肉」は肉の絵である
右●画面に近づいて見えてくる豊富な筆致のバリエーションは飽きがこない



ささき・けいせい Keisei Sasaki
1974年埼玉県生まれ。2000年多摩美術大学卒業。個展04年「ヒッチ」(東京・アップリンクギャラリー)、05年「Long and Wide」(東京・FAD'sART SPACE)、「佐々木啓成展」(東京・a・Pex代官山)。グループ展01年「2 Days PrivateShow 2001(オープンスタジオ)」(東京・スーパープレーン)、03年「関口芸術基金賞入選作家展」(千葉・柏市民ギャラリー)「地雷展2」(東京・ドラックアウトスタジオ)05年「WinterSession 2005」(東京・ギャラリー人)など。次回展覧会情報は以下のHPにて近日アップ予定。
http://www2.odn.ne.jp/superplain/index.html

右●机上に積まれた雑誌などの資料、モチーフはこうした資料の写真から
選ばれることが多い
左上●フラットな色面にはグアッシュ、マチエールを出すためにはパステ
ルもよく使うという
左下●カスタマイズした筆の各種。柄を極端に長くし、あえて使いづらく
した筆もある
以前本誌の特集「物語る絵画」(2005年6月号)で、紹介されたこともあるので、佐々木啓成の作品に、見覚えのある読者もいることだろう。この時「物語る絵画」の一つとして取り上げられた彼の作品だが、しかしそのフレーズとは反対に彼の作品は、むしろ 物語性を極力排除することで成立している。モチーフの選び方からして、そ の意味や動機はとても稀薄である。

「たとえば靴の絵は、冠婚葬祭で履いていく靴がなくて、雑誌でこの靴いいなと思ったものが、すごく値段が高くて買えないから、じゃあ絵にしてみようかなって、それくらいの理由しかなかった。モチーフは本や雑誌の中にある写真から選ばれることが多いです。写真からイメージの断片を切り取り、絵として複製することで、さらに本来の意味や物語性を漂白していく。描き方でも同様で、モチーフを画面の中心に背景が隠れるほど大きく描くことで、絵の中に物語、状況や場面が想像しにくいようにしています」。

代わりに強調されるのが、違和感(質感のコントラスト)である。荒々しい筆致が残った面とフラットな抜けのある色面を並べ、描き方やマチエールの違いを極端に見せることで、鑑賞者の視線を全体のイメージだけでなく、表面や細部へと導く。離れては肉や惑星など具象のイメージを眺め、近づいては生々しく残る筆の動きや色の重なりといった抽象を経験する。絵との距離が固定されていないため絵の前を行ったり来たりと忙しく、絵の中へ没入する余裕が与えられていない。物語への入り口はここでも放棄されている。

こうした絵画の物語性を拒否する態度は、佐々木だけに限ったことではなく、ここ数年多くの画家に共通するものである。なぜ物語というものがこれほど拒絶されるに至ったかは、ここでは詳しく触れないが、要するに万人が共有できるコミュニケーションの場としての物語、その消費期限がいつからか切れてしまったのである。だから絵画は別の手段でそれを回復しようとした。例えばその一つが、見る人個人がその人なりの物語をつくってくれて結構と、想像の「自由」を提供することで、万人共有の物語の不可能性を暗に示してみせる方法だった。物語は用意するものではなく、見る人によってその場で生まれるもの。物語は一つでなく、無数の物語が存在するのだと。

確かに物語は一つでなく、無数にあるのかもしれない。しかし自由に生まれるだけ生まれたそれらはどこへ行ってしまうのだろう。何とも交わることなくただ漂い消えていくだけだとしたら虚しい。「物語性や意味とかは絵の中には全くないです。でも見る人がそこに何かストーリーを見ることは全然否定はしない」という佐々木の作品も、そうした「自由」な絵という側面を持つ。しかし彼が昨年5月に行った個展での展示には、素直に「自由」な絵とは呼べない異質さがあった。今回ここに載っている図版は、その時の展示の方法をそのまま再現している。

「展示の仕方を考えている時に、各々一枚で完結している作品を、単純に隙間なくつなげて見せたらどうなるんだろうと思って。組み合わせは絵のモチーフによってではなく、色の配分とかデザイン的に一番しっくり来る配置で決めたんですけど、はじめからつなげることを意識して描いたらこういう感じにはならなかったと思います。その時にこれまで感じたことのない違和感があったんです」。

確かに一枚一枚の絵は物語や意味といったものが排除されている。特定の意味が不在だからこそ見る人各々が物語をつくる「自由」も保証される。佐々木の絵にもそれがあったはずなのだが。

「自分にとって各々のモチーフは、どれも等価値だと思ってます。物語とかも見る人に任せようと考えてきたんですけど、あの展示の後で、でもそれだけじゃ弱いなと今は思っていて……」。

「肉、惑星、チーター」、「牛、靴、巨人霊、靴」。その圧倒的な脈略のなさでくっついたイメージの連なりは、あまりに強烈で、自由に物語を想像するどころか、訳の分からなさに言葉は奪われる。ただそういうものだと受け入れざるを得ない「不自由さ」を押しつけてくる。佐々木はフィリピンに旅行に行った際、タクシーの窓から眺めたスラム街と宿泊した海辺のリゾート地、距離は離れているが異質な二つの世界を、連続する時間の中で経験した話をしてくれた。それは衝撃だったという。衝撃とは何かと何かの間に生まれる力である。何とも交わることなく消えていく雄弁な「自由」の中ではそれは生まれない。ならばたとえその力に一瞬怯み言葉を奪われても、はじまりの胎動震わせる「不自由」を歓迎したい。

◎いしい・よしゆき[美術ライター]
ハンザイエローオペーク HANSA YELLOW OPAQUE [41-B]
「もともと感覚的に黄色という色が好きなようで、気がつくとまた黄色を使っていることがよくあるんです。その中でも、特に紙を媒体とし、フラットな色面を作る際には、ハンザイエローオペークを好んでよく用います。固さもちょうどよく、少ないストローク数でムラなく塗れます。さらに、発色も良く、塗った瞬間に生まれてくるハリの強さが魅力的ですね」。